野田地車  野田のだんじりは明治二十二年岸和田堺町新調
堺町の先代地車です。
このだんじりは屋形細工よりも、和泉彫・浪花彫等の巨匠が各自の分担に於いて、それぞれ得意とする彫物細工を成した作品であり、岸和田から他地区に流出した横綱級の名だんじりです。
大工棟梁・大崎平兵衛
彫物責任者は和泉彫の安田卯ノ丸、助は浪花彫の相野徳兵衛
明治二十年十月十四日に手斧始め、完成は明治二十二年五月六日完成という長い年月と費やした名作です。
堺町がこのだんじり新調に掛けた費用は一千四百十五円九十銭三厘でその内訳は彫物代金八百八十一円五十一銭八厘、諸雑費百九十六円八十九銭五厘、蔵明細百六十九円五十八銭六厘、地車請負人渡し百五十四円四十四銭四厘、地車付属外明細として十三円四十六銭。
堺町では、明治二十年十月四日から同二十二年六月までに渡り、金一千五百六十二円五十一銭七厘という金額を寄付等で捻出した。
明治二十年代初期の千五百円といえば膨大な金額であったと聞いています。

大正11年に野田村数人の若衆が自主的に四千三百円(内金三千円という説あり)の大金で購入
購入時には村役に相談なしで購入してきた若衆は家族、親類縁者から非難を受けたが、その家族は、大切な牛を売却して約二千円を段取りし可愛い息子の夢を叶えたいわれています。
余談になりますが、その話から野田区は牛の角を模した纏を使っていると聞いています。

彫り物は大屋根枡合は神話伝説より正面は天の岩戸、右は素盞鳴尊八岐大蛇退治、左は神功皇后応神天皇平産す。相野徳兵衛作
小屋根枡合は源平盛衰記より正面は清盛厳島参拝の場、右は安倍泰成妖怪退治、左は鶴ケ岡八幡宮鳥逃がし行事。保田卯ノ松作
見事な彫り物の中でもこの保田卯ノ松作「鶴岡八幡宮鳥逃しの行事」が見事です。
勾欄は東海道五十三次から正面は袋井・白坂・島田・江尻・由井・等。右は沼津・箱根・小田原・等。左は新井・一ノ宮・桑名・四日市・等。彫筆作
松良は源平盛衰記より右は大江山四天王寺頼光の木渡り、左は安宅関 弁慶義経懲打 吉野山千本桜。安田卯ノ丸作
また松良は土呂幕までつながる現在の型であるが松等受けがありません。
縁葛は唐子千人遊びより正面は雪だるま・かたくま遊び、右は布袋車引き、左は獅子舞・犬追い
小連子は太平記より正面は楠木正成後醍醐天皇に初見参。右は唐崎浜合戦。左は新田義貞勇戦鎌倉襲撃。相野徳兵衛作
大連子は太平記より正面は湊川正成本陣、右は六波羅北条館襲撃、左は東寺襲撃の場。彫安作
土呂幕は太平記より正面は楠公父子桜井の驛ノ決別(正成刀を拝受?)、右は楠木正季勇戦大森彦七を討つ、左は楠木正成の最期。安田卯ノ丸作
見送りは大坂夏之陣となっています。
見送中央の木村長門守馬上の勇姿は相野徳兵衛作
大脇の国松君背負う後藤又兵衛と本田忠朝の最期は安田卯ノ丸作



昭和五十九年大工棟梁・木下孝治 彫刻・木下頼定のコンビで見事に修復されています

平成十六年にも大下工務店で修理を行っています。

令和五年 大下工務店にて大修理を行っています。

中家で見つかった資料には記されていません。
野田地車庫 野田のだんじり小屋は野田の公民館の建物の一部が小屋になっています。
場所はR170号を天国という炉端焼きのある交差点を役場側に曲がってすぐを右折し少し走ったところの左側にあります。
扉のシャッターに野田区の法被の図柄が描かれれているので直ぐに分かると思います。
野田のだんぢりは大宮と並んで熊取が他地域に自慢できるだんじりです。
このだんじりを岸和田・堺町がなぜ売却したか私はいまだに不思議でなりません。
もし、野田のだんじりを見る機会があればゆっくりとだんじりの彫物の細工を見てください。